⑦ 東京都中央区日本橋

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日本橋の取材にも行って来ました。日本橋は「チ・カ・ラ」の重要な舞台。と、同時に私の祖母の思い出の地。祖母の家のあった場所は、旧南茅場町あたり。今の、茅場町や兜町あたりだそうですが、区画整理され、町名も変わったので、正確な場所は不明。でも、日本橋だけは、昔のままの面影をとどめ、祖母の記憶を思い起こさせてくれる場所でした。この橋を舞台に、「チ・カ・ラ」の物語がどのように展開するのか・・・。楽しみにしていてください。

設計は横浜赤レンガ倉庫と同じ妻木頼黄。(明治44年完成)一説によると、日本橋は水辺との関係を大事に、川面からみても美しいように設計されているそうです。今は、高速道路が上を走り、大正時代とはムードが違いますが、漫画の中で、再現した、大正時代の日本橋は・・・・


⑥ 文明開化 始まり物語

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千華羅(「チ・カ・ラ」の主人公)の父が経営する新聞社は『銀座煉瓦街』にありますが、『銀座煉瓦街』は『文明開化』の香りがした街。そこで、『文明開化』の始まりの場所を訪ねてみました。

横浜にペリーが上陸したのは1854年(安政元年)。『横浜開港資料館』の中庭には大きな玉楠の木があります。この木は、まだ、横浜が半農半漁の小さな村だった頃からあるそうで、『ペリー提督・将兵の横浜上陸図』の石版画に描かれた木は、その昔の姿だと言われています。

玉楠の木は今も緑豊かで、木の生命力に感動・・・。


⑤ 横浜市開港記念会館

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「チ・カ・ラ」の時代の建物探訪。

横浜市開港記念会館は、現存する、大正時代の赤レンガの建物です。

横浜を舞台に作品を描き出してから、横浜に残る古い建物が好きになり、学生時代に学んだ「近代建築の歴史」の教科書を引っ張り出して、読み返したりしていました。

なので、「チ・カ・ラ」の作品の中で古い建物を描く事ができて、とてもうれしいです。

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横浜市開港記念会館は、通称「ジャック」。大正6年に創建。コンペでデザイン原案を募集。

建築様式は東京駅の赤レンガを思わせる、「辰野式」を採用しているそうです。(辰野式は赤い煉瓦に花崗岩のストライプが特徴)。

外観もいいけれど、中もとても綺麗です。今も市民が会議や講演に使っている現役の会館。

ここは、岡倉天心誕生の地でもあります。


④ 大正時代の新聞

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新聞博物館のライブラリーに調べ物に行ってきました。ライブラリーでは明治時代からの、主要な新聞が読めます。

今日は、「チ・カ・ラ」の次回作に必要な調べ物をしてきました。大正9年〜大正10年までの新聞記事の中から、必要な記事を探したんですが、これが結構大変。

パソコンを使う調べ物は、簡単に検索できるのですが、マイクロフィルムでの調べ物は、ひたすら早回しで、一枚一枚見出しをチェックするという動体視力を酷使するもの。

あ〜、目が回った。一応役に立ちそうな記事を見つけて、無事、帰宅。

それにしても、こんなに古い新聞が現在も読めるなんて、ありがたいな〜。
「チ・カ・ラ」の調べ物には、新聞博物館にかなりお世話になってます。


③ 横浜の赤レンガ倉庫

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コーラス連載中の「チ・カ・ラ」。主人公、千華羅の父が経営する新聞社は大正時代の銀座煉瓦街にあります。西洋化がすすむ明治の日本では煉瓦造りの建築物が増えていきました。そこで、その面影をのこす横浜の「赤レンガ倉庫」も取材しました。もっとも、「銀座煉瓦街」は、煉瓦の上に漆喰が塗られ、見た目は「赤」ではなく、白塗りの建物だったそうですが・・・。写真は明治末期から大正初期に作られ、現存する横浜の「赤レンガ倉庫」。昔は文字通り倉庫として使われていましたが、一度は衰退、廃墟同然のハードボイルドな雰囲気をかもし出す「赤レンガ倉庫」で撮影されたドラマや映画を30才以上の方は見たこともあるのでは・・・?、その後、「赤レンガ倉庫」は、2002年4月にレストランやショップの入った商業施設として生まれ変わり、今は「お洒落な横浜」のシンボルです。


② 公衆電話初めて物語

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大正時代の電話って・・・????。これまでの漫画と違って、小道具を書くのにも資料がいる『チ・カ・ラ』。でも、思わぬところに、大正時代の電話があったりするんです。まだ、漫画には登場していませんが、これは、日本初の公衆電話と同じ形のもの。もちろん、レプリカです。中を撮影した写真を見ていただくとわかるけど、こんな風に、レプリカは現在も使えるようになってます。う〜ん、そこまでしなくても(?)って感じで笑えますが。今やケータイの出現で、存在自体が危うくなってきた公衆電話。でも、最初に出来た時は便利だとみんな感動したんだろうな〜。

この、公衆電話のレプリカは横浜、三ツ沢球技場近くで、偶然発見。当時は「自働電話」っていったそう。他にも、横浜で・・・・・。


① 新聞初めて物語

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只今、私は「コーラス」に『チ・カ・ラ』を執筆中ですが、そのヒロイン、千華羅の父親は新聞社を経営。そこで、新聞について調べる事に・・・。日本の新聞の原点は、江戸時代の『瓦版』ですが、日本初の本格的な新聞は横浜から誕生したそうです。今も、誕生の場所には、記念碑が・・・・。この記念碑、当時は外国人居留区であった、現在の横浜中華街のとある場所にポツントたたずんでおります。たぶん、観光客も素通りするような、奥ゆかしいたたずまい。

新聞を最初に発行したのは、ジョゼフ彦さん。記念碑には彦さんの顔が・・・。海で遭難して、アメリカの舟に助けられ、その後、アメリカで育ち、日本に戻り、向こうの新聞を手本にした新聞を発行したそうです。アメリカ国籍をもつ日本人が日本初の新聞発行者。横浜には「日本初」のものがいろいろあって面白い!。大正時代の面影を求めて、今後もいろいろ取材したら、『製作舞台裏』としてアップしていきます。


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