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この、雪の結晶のペンダントは、
アシスタントのお仕事をしに来てくれている
Kちゃんからのプレゼントです。

コーラス連載中にもらったのですが、
2巻が発売されてから、公開しようと思って、
今日まで、ブログに掲載せずにいました。

2巻を読んでくださった方は、このペンダントを見て、
「ああ!」って、分かりますよね!
Kちゃんがキットで作ってくれました。
私も「わあ!。これ、これ、こんなイメージ!」って、
思ってうれしかったです。

「チ・カ・ラ」ご愛読ありがとうございました。

応援して下さった皆様、本当に感謝です。
続きを読みたいとおっしゃって下さった方もいて、
大変うれしく思っています。

私の中では「チ・カ・ラ」は未完です。

「チ・カ・ラ」はフィクションで、モデルはいませんが、
大正時代、日本橋で育った祖母の話、
明治・大正の新聞人だった曾祖父(祖母の父)の話が
作品の創造の源になった事は、
以前ブログに書いた通りです。

そして、実は、私の祖父もふたりとも(父方、母方双方)
昔、新聞記者でした。

「チ・カ・ラ」の物語は、その後、関東大震災に進む予定でした。

祖父、祖母が、関東大震災の被災者だった事もあり、
震災時に活躍する新聞記者達の話が描きたくて、
「チ・カ・ラ」を企画しました。
残念ながら、肝心の震災のシーンの直前で、
連載が終わってしまったのですが・・・。

コーラスの編集部に、最終話までのプロットを
このブログに公開する許可ももらったのですが、
やはり、千華羅と、達道、央のその後の運命は
読者の皆さんのご想像にお任せする事にして、
震災当時の時代背景だけ、少し、ブログで紹介させていただくことにします。


関東大震災当時、銀座は「チ・カ・ラ」に描いた通り、新聞社街でした。

銀座はその立地のよさから、ある文献によると、明治の一時期は、
100を超える新聞社が集中したとも言われています。
大正時代にも多くの新聞社が銀座にあったそうです。

大正12年9月1日に起きた関東大震災で、銀座は火の海となります。
東京、横浜に本社を置く、新聞社のほとんどが、大打撃を受けますが、
それでも、新聞各社は情報を求める人々に、
被害の状況を伝えようと奔走します。

瓦礫の中から、活字を拾い集め、
(当時は活字を組んで記事を作っていました)
新聞を発行しようとした新聞社や、
壊れた印刷機の変わりに、
千華羅が「銀座倶楽部」を刷っていたような
手刷りの印刷機で、手書きの新聞を発行した新聞社がありました。

横浜の新聞博物館で見た、当時の記者達を写した写真が
私の心に今も強く残っています。
黒く燃え、煙の立ち上がる、街を背景に、
まだ、地震の混乱が続くさなか、
皇居前広場に避難した記者達が集まり、
その場で、臨時編集局を設けている姿が記録に残っています。

「使命感」ってこういうことをいうのかな・・・。と思いました。

関東震災当時は、まだ、ラジオもテレビも無く、情報は新聞のみ。
どれだけ、新聞の情報を人々が必要とした事かと思います。

その為、ひとたび、誤報が出ると、訂正の情報を出しても間に合わず、
誤報による、悲惨な事件が出たことも
記憶に留めておかねばなりませんが・・・。

震災当時の新聞を読んで、私が一番、印象的だった記事は、
各国からの支援と、ボランティアの記事でした。

外国からの支援や、日本各地からの救援、
人々のボランティアといえば、
まだ、記憶に新しい、阪神大震災の時の様子を思い出しますが、
大正時代の関東大震災でも、人々は助け合って、困難を乗り越え、
もの凄いパワーで復興したんだな・・・と、感じました。
人間の持つ力は凄いなと、昔の新聞記事から教えてもらいました。

駆け出し新聞記者の千華羅は、震災の時どんな活躍をしたんだろう。
刑務所から戻った央は・・・。集英日報は・・・。
災害の現場で共に働いたとしたら、千華羅と央の関係は
どんなふうに変わったんでしょう?

・・・・・さて、一方、達道は、新米建築家として、
アメリカで修行をしていました。
帰国が決まったところで、2巻は終わりました。

建築の方からも当時のことを少し・・・。

千華羅の父の新聞社「集英日報」は銀座煉瓦街にありました。
大正時代は、すでに、建て替えられたり、増築された建物もありましたが、
まだ、明治の煉瓦街が残っていました。
しかし、それは、関東大震災で壊滅したそうです。

「チ・カ・ラ」1巻にも描きましたが、
銀座煉瓦街は大火の多かった江戸の街を災害から守るための
都市計画でもありました。

火事に強い煉瓦でしたが、
関東大震災のような、創造を超える災害には勝てませんでした。
震災後、鉄骨や鉄筋コンクリートの建物の強さが際立ち、
以降、煉瓦の街並みは、姿を消していくことになります。

アメリカに鉄骨や鉄筋コンクリートの勉強に行った達道は、
帰国後、どんな日本を創ろうとしたのかなぁ、と思います。

その後、銀座の街は、驚くほどの勢いで復興し、
モダンガール、モダンボーイが闊歩する町へと変貌を遂げるのですが・・・。

さて、達道が千華羅に渡した雪の結晶のペンダントは・・・?
帰国した達道は千華羅に会えたんでしょうか・・・?

横浜も震災で大被害を受けました。
千華羅と達道が結ばれた日に歩いた「バンド」と呼ばれた海沿いの道。
その道の向こうの海に、横浜の人々は
震災で出た瓦礫を捨てて公園を造りました。
それが今の山下公園だそうです。

横浜の街をプラプラと歩きながら、今も、
千華羅たちのその後を夢想している私です。

ただ、『震災の時、活躍した新聞記者たちの話を描きたい』と、
情熱ばかりで走り出した、「チ・カ・ラ」でした。

時代物は初挑戦。
いろいろと、苦労の多い作品でしたが、
良いスタッフに恵まれて、
大正時代の先人達と会話しながら作品を描く作業は、
苦しみよりも、楽しさの方が多かったと、今、振り返って思います。